「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。
汗牛足(かんぎゅうそく)vol.31 (2018.7.14発行)
◆今回はサイエンス・ノンフィクションを一冊。
■ダニエル・E・リーバーマン、塩原道緒(訳)『人体六〇〇万年史――科学が明かす進化・健康・疾病 〔上・下〕』ハヤカワノンフィクション文庫(2017) [Lieberman, D. E. (2013). The Story of the Human Body: Evolution, Health, and Disease.]
率直に言って、この本は抜群に面白かったです。そして面白いと同時に、自分の健康について考え直すのにいいきっかけになりました。著者はハーバード大学の人類進化生物学の教授だそうですが、こんなに一般向けに分かりやすくて質の高い(そして幅広い教養をうかがわせる)作品を研究者が書いたことに驚きです。
本のテーマはタイトル通り人間の進化と健康と病です。とはいえ、内容は多岐にわたって興味の種は尽きません:私たちの身体はどんな経緯からこのような形態・仕組みになっているのか?どのようにして、そしてなぜ、ヒトは二足歩行をするようになり、大きな脳を持つようになり、そして体毛は薄くなったのか?;ホモ属(ヒト族)の中でどうして我々ホモ・サピエンスだけが生き残ったのか?;農業革命と産業革命(進化の観点から言えばいずれもごく最近の出来事)は私たちの生活と環境にどんな影響を与えたのか?;現代になって急速に広まっている健康問題、例えば肥満やアレルギー、2型糖尿病、骨粗鬆症などに私たちが直面しているのはなぜなのか?それらはどうすれば予防できるのか?;快適で安楽な生活の追求は私たちの身体にとってどんなリスクがあるのか?;人間の身体のよりよい未来のために何ができるか?……
文庫本上下巻で600ページを超えるだけあって内容豊富なので、もちろん幅広く深く紹介するなんてことはできません。というわけで今回は本書のベースとなる考え方である、進化とミスマッチ病とディスエボリューションについて紹介することにしましょう。しかしこれだけではこの本の数々の面白い具体的な話にはほとんど触れられないので、そのごく一部の例として特に肥満についての話を取り上げようかと思うのですが、これはまた次回に分けて紹介するつもりです。
進化とは何でしょう?著者は「進化とは、時間を経ての変化という、ただそれだけのこと」と表現しています。進化は進歩と混同されやすいですが、進化それ自体に肯定的ニュアンスはなくて、それはむしろ単なる変化を意味しているということですね。(「進化」というのはevolutionの訳語ですが、「退化」の対義語と誤解されかねません。それなら進化ではなくて「経化」とでも訳したほうがよかったと思います。)では、進化はなぜ起こるかというと、それは「自然選択」が起こるからです。
著者は自然選択を3つのありふれた現象の結果だと説明しています。一つは変異(variation)です。これは単に、人それぞれ「体重や脚の長さや鼻の形や性格などが、さまざまに異なっている」ということです。二つ目は遺伝性(genetic heritability)。一部の変異は親が子に遺伝子を受け渡すことで遺伝される、ということです。遺伝性には程度があって、例えば身長は性格より遺伝性が高く、何語を話すかは遺伝性がないですね。三つ目が繁殖成功度の差(differential reproductive success)で、自分の子どもがどれだけ生まれるか、その子供が大人になってまた次の世代をどれだけ産むかに差がある、ということですね。この3つが起こるなら必然的に自然選択は起こります。つまり、もしもある個体が繁殖成功度を高めるような変異を持っていれば、持っていない個体より優位に立って多くの子どもをもうけますし、その子どもにその変異が遺伝していればまた同じことが起きて……ということが繰り返されます(正の選択)。逆に、もしも有害な変異を持っていたら、それを持っていない他の個体より不利になるので、次第に受け継がれなくなります(負の選択)。結果として、より環境に「適応」した個体が選択されていくことで進化が起こるというわけですね。
ここで、「適応」という言葉を使いましたが、この言葉は一般に思われている意味と少し違っています。自然選択の文脈での「適応」の本質的な意味は、繁殖成功度を他の個体よりも高めてくれる特徴のことです。したがって、「私たちは何に適応してきたのか?」という問いに簡単に答えるなら、「とにかくできるだけ多くの子や孫や曾孫を持てるように適応している」ということになります。つまるところ、私たちは必ずしも健康になるように進化してきたわけではありません。ちょっとショッキングですが、「生物はどれ一つとして、最初から健康で長命で幸せに生きられるよう適応したわけではなく」、仮に結果として健康で長命で幸せになるよう適応したしても、「それはその資質が、個体がより多くの子を生き延びさせられるようにすることに資する場合に限って」の話なのです。これは後で説明するミスマッチ病に関連してくるのですが、「私たちは、何不自由のない快適な条件のもとで何を食べ、どれだけ運動するかについて、合理的な選択ができるようには進化していない」のです。
人間は健康になるように進化したのではない、ということに加えてもう一つ押さえておきたいのが、私たち人間の進化は終わっていない、ということです。「人間はサルの仲間から(大昔に)進化しました」と聞くと、英文法でいう「had+過去分詞」みたいですが、実際はそうではなくて、「私たちは昔から今なお(そして未来も)進化(≠進歩)し続けています」という、「have been+進行形」なんですね。確かに、旧石器時代以降、「ホモ・サピエンスには重要な生物学的進化がほとんど起こっていないというのが一般的な合意」だそうですが、「今日でも石器時代と同様に、ある人々は別の人々より多くの子を持つことになっている。したがって、人間の繁殖力の差に少しでも遺伝性の基盤があるならば、自然選択はいまも確実に働いているはず」だといいます。
そして、現在まで過去一万年くらいの人間の進化を考えるにあたっては、これまで述べた生物学的な進化のみならず、文化的な進化を考える必要があります。文化、というと物質的な文明とは違った精神的な人間の営みのことかと思う人もいるかもしれませんが、この場合はそうではなくて、単に人間が自らつくり上げてきた生活様式、といった具合の意味で、料理することや長時間椅子に座ることや夜更かしすることも文化に含まれるのです。この広い意味での文化が時とともに変化していくことが文化的進化だと言っていいでしょう。生物学的進化においては、変異の遺伝は遺伝子によるものですが、文化は学習によって次の世代に伝えられます。そして何より、文化的な進化は、偶然だけでなく意図によっても左右され、「親に限らず、誰でもその変化の源になりうる」ものです。著者によれば、「人間の文化的進化は何百万年も前に始まったが、現生人類が最初に進化した二〇万年前ごろから劇的に加速し、いまや、めまいがするほどのスピードに達している」とのこと。そしてここ一万年の重要な文化的変化が農業革命と産業革命、ということになります。
農業革命や産業革命に代表される文化的進化は私たちの環境を劇的に変えてきました。私たち一人一人がどのような人間になるのかは結局親から受け継ぐ遺伝子と、環境との相互作用によると言っていいのですが、文化的進化はその環境の方を変えることで私たち自身を変えてきましたし、人間の生物的進化にも大きな影響を与えています。例えばここ数百世代の文化的変化は人間の身体に影響を与え、「成熟が早くなり、歯は小さくなり、顎は短くなり、骨は細くなり、足はしばしば扁平になり、多くの人が虫歯になりやすくなった」といいます。また、文化的進化は、「それがなければ起こっていたかもしれない自然選択から無数の人間を守る緩衝材となってきたはず」ですよね。例えば1940年代に普及するようになったペニシリンがなかったとしたら、「遺伝的に結核や肺炎にかかりやすい素因を持っていた人々は、いまごろ何百万という単位で生きていなかったかもしれない」などなど。いずれにせよ今日急速に進化する文化は私たち人間の身体と進化に大きな影響を与えているのです。
ここでミスマッチ病の話に移ることにしましょう。ミスマッチ病とは進化生物学・進化医学といった科学分野で出てきた考え方(仮説)で、「定義するなら、旧石器時代以来の私たちの身体が現代の特定の行動や条件に十分に適応していないことから生じる病気」です。「みなさんが死ぬときは、十中八九ミスマッチ病で死ぬだろう。みなさんが障害を負うときは、十中八九ミスマッチ病が原因だろう。ミスマッチ病は世界中の医療費の大部分を食っている」という著者の言葉に従えば、ミスマッチ病は現代においてかなり重要な意味をもっているのです。
ミスマッチ病の原因は3つに大別されます。環境の変化によって身体に与えられる刺激が多すぎることと、少なすぎることと、新しすぎることです:「たとえば文化的進化が人々の食生活を変えるとともに、ある種のミスマッチ病が脂肪摂取の過多によって起こり、また別のミスマッチ病が脂肪摂取の不足によって起こり、また別のミスマッチ病が、身体の消化できない新種の脂肪(水素添加した硬化油など)を摂取することによって起こるのである」。
そして、身体に与えられる刺激を変えてきた大きな要因が先ほど説明した文化的進化です。「ここ数世代間のテクノロジーと経済の変化は、私たちがかかる感染症、摂取する食物、服用する薬、行う仕事、吸い込む汚染物質、消費するエネルギーの量、経験する社会的ストレスなど、さまざまなものの内容や度合いを変えてきた」のですね。もちろん文化的進化によって私たちがより健康に暮らせるようになったことは事実ですが、一方で私たちがそれらの変化に十分に適応していないために生じる病気(ミスマッチ病)も起こっている、ということです。
とはいえ、どの病気がミスマッチ病であるかを判定するのはかなり難しいそうで、専門家の間でも意見が一致しないことが多いようです。理由の一つは、私たちの環境の変化と病気との因果関係が直接的でないか、見えにくいということ。ミスマッチ病の原因は複合的で、直接的、間接的な環境要因を正確に指摘するのは難しく、まだ仮説段階にとどまる病気も多いので、本当にミスマッチ病かを検証するにはもっとデータが必要とのこと。
こうした留保があることを断ったうえでミスマッチ病の例の一部を紹介すると、メタボリックシンドローム、高血圧、ある種のがん、2型糖尿病、心臓疾患、脳卒中、骨粗鬆症、腎臓病、一部のアレルギー、アルツハイマー病、うつ病、慢性の不眠症、にきび、近視、埋伏智歯、腰痛、偏平足、痔、慢性の便秘などが挙げられています。以上は非感染性のミスマッチ病ですが、結核や天然痘やインフルエンザやはしかなどの致死的な感染症にしても、農業が始まって以来、農場生物と接触するようになり、公衆衛生が不備なまま、人口密度の高い大集団で生活するようになったことが大本の原因です。
最後にディスエボリューション(dysevolution)について。これは進化(evolution)という単語に有害なという意味の接頭辞(dys-)をつけた著者の造語だそうです。その意味は、「ミスマッチ病の原因に対処せず、その病を引き起こす環境要因をそのまま次世代に伝え、病が普及したり悪化したりするのに任せることで、いくつもの世代にわたって生じる有害なフィードバックループ」です。といっても何のことか理解しにくいと思うので、壊血病と虫歯という2つのミスマッチ病と、それへの人間の対処の違いという著者が挙げている例を紹介しましょう。
壊血病というのはかつて船乗りの間で一般的だった病気で、ビタミンCの欠乏が原因で起こります。船乗りは新鮮な果実や野菜を摂取する機会があまりなかったのでビタミンCがしばしば不足していたのですが、この原因が明らかになってからは壊血病を予防できるようになりました。ですからこのミスマッチ病は今日では珍しくなった、というわけです。
一方の虫歯はなったことのない人の方が珍しいのではないでしょうか。口内にはいろんな細菌がいますが、そのうちごく少数の種が、食物に含まれるデンプンや糖をエサにするときに酸を放出し、それが歯を溶かして穴をあけ、これが虫歯になるそうですね。「残念ながら人間は、虫歯の原因となる微生物に対抗できる天然の防御をほとんど持っていない」のですが、「これはおそらく、私たちが澱粉質や糖質の食物を多量に食べるように進化してはこなかったからだ」と著者は言います。というのも、類人猿が虫歯になることはめったになく、狩猟採集民の間でも虫歯は珍しいことだからです。つまり、虫歯が広まったのは農業を開始して穀類やイモ類などの炭水化物を主食としてからで、とくに19世紀と20世紀に急増したんだとか。だから、「もし私たちが本当に虫歯を予防したいなら、私たちは糖と澱粉の摂取を劇的に減らさなければならない」ということになります。しかし、そんなことは今さら無理ですよね。「虫歯は私たちが手軽にカロリーを得るための代償のようなもの」で、どの親も自分の子に「虫歯になる食物を食べさせながら、歯を磨くようにと推奨して、歯医者に送りだす」ということをやっています。
壊血病はなくなったのに虫歯はなくならないのはディスエボリューションのせいです。壊血病の場合はビタミンCの欠乏という根本の原因に比較的容易に対処することができましたが、虫歯の場合は糖とデンプンの多量摂取という原因は放置したままです。どちらも食生活の変化という文化的進化によって起こったものですが、虫歯を引き起こした食習慣は改められずそのまま次世代に引き継がれているのです。この糖とデンプンを主食とする食習慣は虫歯を助長させる文化的進化の産物ですが、これこそディスエボリューションの一例なのです。
著者はミスマッチ病の多くはディスエボリューションによって広まっていると考えています。そしてそれらの病には3つの共通した特徴があると言います。第一に「ほとんどが原因に対処しにくい慢性的な非感染性の病であること」です。第二に、「繁殖適応度にさほど影響を及ぼさない」こと。例えば虫歯や近視は有効に治療したり対処したりする方法があるので、それがあるからといって死にはしませんし、子供が得られないということもありません。また、2型糖尿病や骨粗鬆症やがんは子どもを作らなくなるくらいの高齢になって発生する場合が多いので、こちらも繁殖成功度にはあまり関係ありません。そして第三に、ミスマッチ病の原因は文化的利点があって、とくに経済的な利点がある、ということです。いくら虫歯の原因といわれても糖とデンプンを主食とする食習慣なしにはもはや75億もの世界人口を養うことなんて到底ムリですし、その経済的恩恵を即座に捨てるわけにはいかないのです。喫煙や炭酸飲料の飲みすぎにしても、長期的影響から考えれば忌まわしいものですが、その合理的な評価が人によっては通用しないくらいの即時の快楽をもたらすからこそ、それらはいまだ廃れていないのですね。移動や家事にしても、布団やイスにしても私たちはできるだけエネルギー消費量が減るような、安楽で快適なものを求めたがりますが、それは一方で運動不足、身体への負荷不足につながり、時として健康問題に至ります。しかしだからといって自分は車も自転車もエレベーターも水道もガスも電気もリラックスできるイスやソファーやベッドも靴もいらない、という人はまずいないのです。
というわけで以上、本書の重要な考え方である(と私が思う)進化・ミスマッチ病・ディスエボリューションを駆け足ですが紹介しました。ちょっと内容がハードで分かりにくかったかもしれませんが、実際の本は具体例に満ちていて興味深く読み進められるのでよかったら上巻だけでも読んでみるとおもしろいと思います。次回はたとえば肥満をとりあげて、私たちの進化の歴史を踏まえながら、もう少し具体的な話に突っ込んでいけたらと思っています。
◆あとがき
この「あとがき」は決して時事コーナーではないのですが、前回号を発行してから大阪で地震やら西日本で豪雨災害やらいろいろありました。中でもここで少し触れておきたいのが7月6日のオウム真理教を率いた麻原彰晃こと松本智津夫はじめ計7名の教団幹部の死刑執行です。オウム真理教関連の問題はまたいろいろ調べて考えてみたい問題ですね。2年前にこの汗牛足で立花隆と東大教養学部ゼミ生による『二十歳のころ』(新潮文庫)という本を紹介しましたが、私はこの本を読んでオウムに対する考え方が大きく変わりました。この本には元オウム真理教信者の方2名が、「二十歳のころ」、どんな経緯でオウム真理教に入信したかなどについて書いてあったのですが、私はそれを読んで「オウムはとにかく恐ろしいもの(≒自分とは関係ない)」というそれまでの認識を改め、「自分の中にもある普遍性のある問題」だと思うようになりました。そう思うきっかけになったところを本から引用しましょう:「人口問題とか環境問題、そういうものに関心を持つ真面目な人は、かんたんにひっかかっていましたね」「日本や世界の行く先を懸念するあまり、個人の非力さにどうしようもないやるせなさを感じるんですよ。危機を感じている分、何かせねばならないという感覚が襲ってきて、そこにオウムが現れる」「ハルマゲドンや世界の終末の予感ってのは、僕はずっと抱えていた。それがオウムの思想と接することによって増幅されたっていう部分がある」「今回オウム事件に関して僕が懸念している点は、そういう人類にとって普遍的ともいえるテーマを『オウム事件』というせまい枠組みの中に押し込んで、一緒くたに片づけてしまおうとしている点なんだ」「差別的にオウムが語られてしまうときに感じる違和感は、そこに思考の停止を感じるからです。突き詰めて考えてみると、色々と教訓になる問題だと思います」……。
私は元信者の方の話す内容があまりに理知的で驚きました。この『二十歳のころ』にはいろんな人へのインタビューが載っているので、中にはあまり感心しない人もいるのですが、元信者の方の話しぶりは、私がもともと持っていたオウム真理教信者に対する「イカレタ奴ら」とか「気違い」といった差別的な見方を突き崩し、自分と変わらない理性ある生身の人間であることを確信させました。このとき初めて、オウム真理教を「絶対的悪」だと決めつけ、「自分とは違う異常な存在」として見ているようではダメだと思ったのです。
7人の死刑が執行されて、これでオウムの問題は解決したと思われてしまわないか懸念しています。そして元信者の方が言うように、異常なものとしてオウムが差別的に捉えられることによって、依然として人々がオウムを自らに関わる普遍性のある問題として認識していないようにも思います。私自身も含めて、オウムを非難することはしても、オウムの問題を理解しようと努力し、そして教訓を得ようとする姿勢には欠けていると思うのです。もっとこの問題から学ぶことはあると思いますし、いずれにせよ私たちは人口問題や環境問題、そして少子高齢化や経済格差と貧困、自然災害や戦争といった問題と向き合わなければならないのです。そこでオウムと同じ轍を踏む人が二度と現れないように、オウムの問題について、まずは冷静に考えてみる必要があると思っています。
7人の死刑が執行されたことは、彼らに自分の考えや体験を語る機会を永久に奪ってしまったということであり、言い換えれば私たちが彼らからこれ以上何か話を聞いてそこから学ぶことができなくなってしまったということです。もちろん私には彼らとその犯罪を肯定したり擁護したりする意図は毛頭ありませんが、この点で7人の執行は日本にとっての損失と言わなければならない気がします。
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