「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。
汗牛足(かんぎゅうそく)vol.39 (2019.3.23発行)
◆ここしばらくユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』および『ホモ・デウス』を紹介していましたが、今回は同じ著者の最新刊(邦訳未刊)を紹介します。[注:『21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考』として邦訳版が2019年11月に出版されている。]
■Yuval Noah Harari (2018), 21 Lessons for the 21st Century
私はどうやらすっかりユヴァル・ノア・ハラリのファンになってしまったらしく、今回もまた飽きもせずにハラリの本を取り上げようとしています。ご了承ください。
私がハラリの本にハマったのは、3つの要因があると思っています。一つは、巨視的に物事を見る面白さや、自分の価値観や物の見方を疑うことの快感さを教えてくれたことです。以前紹介した『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』はまさにそうした魅力にあふれた本で、私にとって思想上の黒船とも言える存在でした。あらゆる宗教やイデオロギー、歴史のしがらみ、種々のバイアスからの解放を目指す著者の姿勢に大いに共感しています。
2つ目は事実と価値判断を区別していることです。事実と価値を分けて考えること、自分の立場に関係なく事実について議論することは難しく、その重要性を理解して実行に移そうとしている人はそれほど多くありません。ハラリの本を読んでいて、彼が事実と価値判断を分けて、価値判断を下すことは周到に避けつつ事実を記述しようとしていることを何度も感じました。また、事実を知るために科学を重視し、歴史学を専門としながら、科学的知見にも幅広い関心を持っていることには、さすが規格外の学者だと思わざるを得ません。
もう一つの要因はハラリ節とでも言いたくなる彼の文章の面白みです。絶妙でおかしみのある例示やシニカルなユーモアやアイロニーがよく効いていて、読み物としての面白さも兼ね備えています。例として一つ紹介するならこれですかね:「今日でさえ、アメリカの大統領が就任の宣誓を行うときには、片手を聖書の上に置く。同様に、アメリカとイギリスを含め、世界の多くの国では法廷の証人は、真実を、すべての真実を、そして真実だけを述べることを誓うときに、片手を聖書の上に置く。これほど多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物にかけて真実を述べると誓うとは、なんと皮肉なことだろう」(『ホモ・デウス』上巻215ページ)
これらの要因がなかったら、私は『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』にこれほどハマることはなかったでしょう。では、今回紹介する“21 Lessons for the 21st Century”はどうかというと、ハラリ節は依然として健在なのですが、巨視的な視点からの面白さや、価値観をひっくり返すという観点から見ると、前作群ほど面白くはなかったです。また、事実と価値を区別する態度にはもちろん変わりはないのですが、それまでの2作に比べると、彼の価値判断がにじみ出ているように思いました。
つまり、この“21 Lessons for the 21st Century”はこれまで紹介してきた『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』とはちょっと性格が異なる書物なのです。以前の著作が大きな視点で人類の物語を描くようにして記述されていたのに対し、この最新作は現在に焦点が絞られています。タイトルが示すように21の章が集まって構成されているのですが、各章の内容はお互いにほぼ独立しており、例えば「戦争」や「移民」、「瞑想」といったテーマごとに、現在を生きる私たちを念頭に置いて考察する内容になっています。
そのことは本書の成立過程にも表れています。序文によると、本書は読者やジャーナリスト、同僚から寄せられた質問に答える機会や自身のエッセーや記事などを土台にして書かれたようです。本書が1つの歴史の叙述ではなく、独立した21 lessonsから成っているのは、色々な素材を寄せ集めてできたことをうかがわせます。また、超時代的というより今日的な関心に基づいたものになっているのも、今を生きる聞き手を想定しているからでしょう。(したがって、『ホモ・デウス』のような壮大なスケールさや価値観を覆される体験を期待するとがっかりするかもしれません。)
分かりやすく言えば、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』が「仙人の視点を得られる本」だとしたら、“21 Lessons for the 21st Century”は「21世紀の地球人になるための本」だと思います。もし21世紀人としてグローバルに物事を考えてみたいということであれば、おすすめしたい一冊です。前作群を読んでいなくても問題ありません。日本語版はいつ出るか分かりませんが、グローバル人を目指すなら英語版で読めばいいですよね?
本書は5部構成で、全21章から成ります。おおよその内容を紹介しておきましょう。英語には一応訳をつけてみましたが、当てにしないでください。
第1部「The Technological Challenge(テクノロジーがもたらす課題)」では、自由主義の物語に人々が幻滅し始めている今日において、情報工学と生物工学のタッグが人類にかつてない課題を突き付けていることが述べられます。自動化によって多くの人が職を失えば経済的に価値のない人々が誕生するかもしれませんし、自由や平等といった価値が脅かされる恐れもあります。
第2部「The Political Challenge(政治的課題)」では、核戦争や生態系の崩壊、科学技術がもたらす混乱といった諸問題を解決するために国際的な協調が必要であるにもかかわらず、ナショナリズムや宗教、文化的な分断がそれを妨げていると述べられます。
先日(3月15日)にもニュージーランドでオーストラリア出身の白人がモスクで乱射事件を起こし、多くの方々が犠牲になりました。文化の異なる移民に対する非寛容性を象徴する事件だと思います。移民や難民の受け入れを背景として、宗教的、文化的対立や偏見が世界的に重大な問題を引き起こしているのは大変残念です。
(余談ですが、日本という国はイスラム教に対する偏見が根強く、ムスリム(=イスラム教徒)であるというだけで警察の監視対象にされます。驚いたことに最高裁もそれを認めており、しかもそれを知っている人も問題視している人も少ない。参照:
イスラム教やムスリムに対してよく知らないけど何となくマイナスイメージを持たれている方は多いのではないでしょうか。しかし、それは無知や無関心から生じる誤解だと私は思います。池上彰『高校生からわかるイスラム世界』(集英社文庫)などは手っ取り早い良書だと思うので、よかったらぜひ。)
第3部「Despair and Hope(絶望と希望)」では、テロや戦争といった不安材料に正しく対処し、謙虚さによって人間の愚かさをカバーすることができれば、この難局を回避できると述べられます。自分の国や宗教、文化が世界で最も重要であると錯覚しないために、何ができるかを問いかけます。
第4部「Truth(真実)」では、世界情勢がどのように進行しているのか複雑すぎて誰も理解できない今日において、道徳的に振る舞うことは可能か、どのようにして真実を知り得るか、プロパガンダやウソに翻弄されずに済むかを考えます。
第5部「Resilience(強靭さ)」では、人々に価値規範や意味を与えてきた古い物語が崩壊し、それに取って代わるものが登場しないまま著しいペースで変化し続ける今日の世界おいてどう生きるかを考えます。
ほぼすべての章に共通して言えるのは、読者に対してこうすべきだといった単純な答えを与えるのではなく、各々のテーマについて関心を持ち、もっとよく考えるきっかけとなることを目指しているということです。ハラリとしては、本書によって問題の所在や性質がもっと明確になって、議論に参加する人が増えればそれで本望なのでしょう。したがって、解決策や具体的な指針のようなものを本書に求めても、ないものねだりになってしまいます。
では、かく言う私自身は本書を読んで何を考えたのでしょう?正直、本書の議論についていくのが精一杯だったので、この本によってそれほど思索を深めたわけではないのですが、特に面白いと思った章が3つあるので、最後にそれらについて軽く触れておこうと思います。
まず興味深いのが第14章「Secularism(世俗主義)」です。世俗主義はしばしば宗教の否定として捉えられ、虚無的で道徳と関係がないとされています。しかし世俗主義者に言わせれば、世俗主義はもっとポジティブでアクティブなものの見方だそうで、あれやこれやの宗教に反対することによって定義されるのではなく、一貫した価値基準によって定義されているのだとか。そしてこの価値基準は実際には無神論者はもちろん、何百万ものムスリムやクリスチャン、ヒンドゥー教徒に受け入れられており、今日の科学的、民主的な団体組織の土台を形成しているとハラリは言います。
このポジティブな世俗主義がもつ道徳的な規則は、真実、共感、平等、自由、勇気、そして責任といった価値観によって特徴づけられます。単なる信念ではなく、観察や証拠に基づいた真実を希求すること。どのような集団や人物あるいは書物も、何が本当で何が正義かを判断する上での絶対的な権威として見なさないこと。共感によって他者の苦しみを理解し、できるだけ人々の苦しみが小さくなる選択をすること。特定の国や階級、または性を特別視したり差別したりしないこと。真実を探究し、苦しみを減らす方策を考える上で、自由は欠かせないものである以上、自由を大切にし、自らの自由を縛ることはしないこと。偏見や抑圧的政権と戦う勇気、自らの無知を認める勇気、未知の世界に乗り出す勇気をもつこと。最後に、この世界を支配する超越的な存在を信じない以上、何であれ私たち自身がなすこと、なさざることに十分な責任を取ること。これらが世俗主義における主要な価値だといいます。私はこうした道徳的態度には共感しますが、なかなかハードルは高そうですね。
もちろんこうした規則は希求すべき理想に過ぎず、社会の現実を示すものではないとハラリは書いています。この世俗主義の道徳的な要求の高さについていけず、これまで世俗主義による運動は何度も教条的で冷酷な信条に変貌してきたそうです。そう、マルクスの理論がいつしかスターリンを生み、科学的理論としてスタートを切ったはずの資本主義が「自由市場と経済成長」というお題目を唱える宗教になり、自由主義は総選挙といういびつな儀式に絶対の信頼を寄せているように。
他の宗教やイデオロギー、信条と同様、世俗主義にも少なからず負の側面はあります。しかし問題は、その負の側面や、至らない点をその信条の持ち主が認められるかどうかなのです。「I personally would trust more in those who admit ignorance than in those who claim infallibility. (私は個人的に不可謬を主張する人々よりも無知を認める人々を信頼する)」とハラリは書いています。わざわざ原文を抜粋したのは、ハラリが「I」を主語にして自らの意見を述べた珍しい箇所だからです。断言するカリスマは特に不安定な時代において魅力的に映りますが、それで世界が救えるというものではない、ということは肝に銘じておかなければならないと思いました。
面白かった3つの章のうち、2つ目は第19章「Education(教育)」です。読者に対して「~すべきだ」とか、アドバイスなどをあまり書いていない本書において、割にそういう記述が多かったなという印象があります。この第19章は第5部「Resilience(強靭さ)」の最初の章なのですが、ハラリは極めて流動的で社会の変化のペースが速い現代において生き残り、成功するために必要なものはresilienceだと言っています。ここでresilienceというのは精神面での柔軟性や感情面でのバランスが取れることだそうです。個人的にグサッときたのがこの箇所。「You cannot learn resilience by reading a book or listening to a lecture. (resilienceは本を読むことや講義を聴くことで会得されるものではない。)」いやはや、私がここ大学3年間でやってきたことは講義に出るのと読書をするのとでほぼ全部なので、困りましたね。
ハラリが時代遅れの学校に閉じ込められている15歳に贈るアドバイスは「don’t rely on the adults too much(大人に頼りすぎるな)」だそうです。なぜなら、変化のペースが激しい今日において、大人のアドバイスが時機を逸した知恵や時代遅れの偏見であるかどうか分からないから。経験豊富な大人の説く処世術に従ってそれがうまくいく確率は数十年前、数百年前に比べると格段に落ちていることでしょう。(余談ですが、ハラリも大人なんだから「大人のアドバイスを当てにするな」というアドバイスをハラリからもらっても、これってパラドックスですよね。)
では、大人の代わりに何に頼ればよいのか?ひょっとしてテクノロジーなのか?しかしそれは一層リスキーなギャンブルだとハラリは言います。もちろんテクノロジー自体は悪くない。もしあなたが人生において何をしたいのか知っているなら、テクノロジーはその助けになりうる。しかしもし人生において何をしたいか知らないなら、テクノロジーが代わりにあなたの目標を形作り、あなたの人生をコントロールするようになるのはとてもたやすい。果たしてあなたはスマホに釘づけにされたゾンビになりたいだろうか?
では、あなた自身を頼ればどうか?しかしながら、大半の人々は自分自身についてほとんど知らない。そして彼らは自分自身に尋ねようとするとき、外部から大いに影響されているにもかかわらずそれが自分自身の声だと信じ込む。バイオテクノロジーと深層学習が発展するにつれて人間の奥深い感情や欲望を操作することは一層容易になっていく。自分の自由意志に従っていると感じながら外部に操られることは可能なのだ。
結局のところ、あなたが何であり、一生のうちに何がしたいのかを知らねばならない。これはつまり、「know thyself(汝自身を知れ)」ということだ。もちろん、将来あなたの外部のアルゴリズムがあなた以上にあなたのことを知るようになったとき、自分のすべてをそのアルゴリズムにゆだねたいということであればただリラックスしていればよい。しかし、もしそれがいやなら、あなたはアルゴリズムよりも先にあなたのことを知る必要がある。
私とは何なのか?何がしたいのか?なぜそう思うのか?この問題にどのようなアプローチをとればよいのか?
最後に面白かった章3つ目。最終章の「Meditation(瞑想)」です。最後が瞑想の章だからと言って、世界中の人が瞑想すれば世界中の問題が解決する、という話ではありません。ハラリは毎日2時間も瞑想しているそうで、自分がどんな色眼鏡で自分のものの見方や自分の著作をゆがめているか読者は知る必要がある、という趣旨で書かれています。私は瞑想はまともにやったことがないのですが(中学でよく黙想をさせられました)、ハラリが瞑想なしには『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を書くことはできなかっただろう、と書いていることもあって、興味はあります。
彼が瞑想を通じて発見した最も重要なことは、自身の苦しみの最も深くにある根源は自分の心のパターンにある、ということだそうです。苦しみは外の世界の客観的な状態によるのではなく、自分自身の心の中で生み出された反応なのです。なるほどハラリが瞑想によってそういう発見をしたのはよいとして、ではなぜ毎日2時間も瞑想をし続ける必要があるのでしょう?
ハラリによると、瞑想は現実からの逃避ではなく、現実とつながることだそうです。また、瞑想は科学研究と対立するものではなく、むしろ科学的に探究する方法なのだそうです。脳を研究することで心を解明しようとする現在主流の科学研究に対して、心の側から人間の心を観察し、探究する。それが瞑想であり、価値ある科学的ツールなのだと主張しています。しかし、観察するとはどういうことなのか、自分で自分を「客観的」に探究できるのか、瞑想による観察では定量的なデータが取れそうにないがそれでも科学的と言えるのか、そもそも心とは何なのか。いろいろと疑問が湧いてきて、瞑想が心を探究するツールとして科学的で有用であるとの主張は私にはどうも腑に落ちません。
しかし、「know thyself(汝自身を知れ)」という課題に立ち向かうなら、確かに瞑想は一つの有用なツールにはなりそうです。ところが本人が言うには本格的な瞑想はとてつもない量の訓練を必要とするらしいので、これはこれで大変そうですが。
◆あとがき
高校を卒業して、この「汗牛足」を書き始めてから早くも3年も経ったとは信じがたいことです。曲がりなりにも今まで毎月続けられたこと、読者の皆さんがいてくださったことは大変幸運なことだと思います。しかし大学4回生となる4月からは今まで以上に忙しくなりそうなので、これまでのように続けていけるかどうかは分かりません。ときどきサボるかもしれませんし、内容がもっと薄めになるか、あるいは形式を変更するかもしれませんが、読者の皆さんにとっていい意味で刺激になるようなものが書けたらなと思っています。今後ともよろしくお願いします。
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