「汗牛足」はボクが大学生の時に発行していた本の紹介メルマガである。基本的に当時の原文のままなので誤りや内容面で古いところがあるかもしれないが、マジメ系(?)大学生の書き物としてはそれなりに面白いものになっていると思う。これを読んだ人に少しでも本に興味を持ってもらえたら望外の喜びというものだ。
汗牛足(かんぎゅうそく)vol.4 (2016.6.12 発行)
◆前回紹介した『知的トレーニングの技術』の原則1、「考える時間を大切にする」に則って、「考える」「思考する」といったキーワードに関連する3冊を紹介します。
■刈谷剛彦『知的複眼思考法――誰でも持っている想像力のスイッチ』講談社+α文庫(1996,2002に文庫化)
本屋で平積みになってるよく売れてる本です。よく売れているといっても(一時的な)ベストセラーではなくロングセラーで、なるほどこれはたしかにいい本だなあと思います。なぜそう思うかというと、第一に文章が平明かつ論展開の見通しがスッキリしていて、理解しやすいこと。よく練られた、丁寧な構成になっていて、好感をもてます。第二に、「知的複眼思考法」なるものがどんなものか、という説明にとどまらず、それを実際に読者に適用させる実践練習の場をいくつか設けていること。たとえば、読売新聞や朝日新聞の記事をぬいてきて、「批判的読書」の実践をします。新聞に載っている活字は正しそうにも見えますが、クリティカルに読めば、記事の内容の批判にとどまらず、その新聞記者がどんなねらいをもって書いたか、どんな暗黙の前提があるのかということまで見えてきます。このように、具体的に実践するとどうなるかがわかるというのも、この本の良書たるゆえんだと思います。
さて、以下では最低限のことをざっと見ておくことにします。(本には参考になることがたくさん書いてあるので詳しい内容はぜひ手に取って見てみてください。)つまり、「知的複眼思考法」とは、1.どのようなもので、2.(実践のためには)どのようなことが必要で、3.どのように実践するか、ということです。
1.まず知的複眼思考法とは、ステレオタイプを鵜呑みにすることなく、自分とのかかわりの中でどのような意味をもつのか考慮したうえで、物事を考えるやり方のことです。自分にとって何が重要なのか常識や他人に惑わされずに冷静に判断し、対応するためにこの思考法は役立ちます。(序章)
2.「ステレオタイプを鵜呑みにしない」ためには複数の視点から物事をみて、ステレオタイプを相対化してみなければなりません。そのために必要な基礎力として、「情報を正確に読み取る力」「ものごとの論理の道筋を追う力」「受け取った情報をもとに、自分の論理をきちんと組み立てられる力」を挙げることができます。これらの基礎力は、「知識の獲得とともに、論理をたどってじっくり考える機会としての読書」(第1章)や、「自分の考えを論理的、批判的[建設的]に表現するために考える機会としての作文」(第2章)によって鍛えることができます。
3.次の実践編では、深く物事を考えるための問いの立て方と展開の仕方を学び(第3章)、具体的なテーマについて(多面的に物事をとらえる)複眼思考の方法を見てみます(第4章)。問いの立て方がまずいと問題は解けず、よい問いが立てられたらそれは半ば解けたも同然、そういった意味で、うまく問いを立てることはかなり重要になります。
最後に注意しておきたいのは、ここでこの思考法を適用する問題は、「知識があればわかる」「調べればわかる」といったような、どこかに「答え」があるような問題ではない、ということです。そうではなく、知識を考えることに結びつけようというのが、この本の姿勢です。「どこかに答えがあってそこに最短最速で突き進めばいい」といった態度は複眼思考と対極にあるものとされます。というのも、著者は「答えを知ることと、考えることとの違いをはっきりさせないまま、正しい答えさえ知っていればそれでいいんだという」考え方のことを、「正解信仰」としてきびしく批判しているからです。さらに「自分でわからないことにぶつかると、勉強不足・知識不足だと感じてしまう」のはこの「正解信仰」の裏返しにある、といいます。自戒を込めて引用しますが、「知識がまったくないというより、知識をうまく使いこなせない」、それが実態だ、そう著者は言います。「勉強不足」というのは謙遜でもなんでもなく、自力で物事に取り組むことを避けようとする、都合のいい言い逃れでした。自分もそんなことをしてはいなかったか、反省させられます。
■ 市川伸一『考えることの科学』中公新書(1997)
いきなりですが、
問題.(四枚カード問題)
「A」「K」「4」「7」の4枚のカードについて、どのカードも片面にアルファベット、もう片面に数字が書いてある。そこで、「母音の裏側には、必ず偶数がある」というルールが成り立っていることを確かめるには、最低限どのカードをめくる必要があるか。
解けましたか?こんな陳腐な問題はすでに見たことがあるという人がいたらすみません。ぼくは「A」だけめくればいいと思っていたのですが、答えは違いましたね。ホントはあと一枚あるのですが、みなさんはどうでしょう。問題を読んで即刻正解に至れば論理の神様、冷静に論理的に考えて正解に至れば勉強したことが身についている人、ぼくみたいに考えても正解に至らなければ残念ながら論理オンチです、沢田允茂『考え方の論理』などを読んで勉強しましょう。(念のために答えを書けば両端の二枚です。)
考えるということには推論するということが伴います。しかし人が推論をするときには、その内容を捨象してもっぱら論理にしたがってやるのではありません。日常ではそのような形式論理を用いる機会はほとんどないでしょう。むしろ、その場面の文脈に応じてなされることが多いです。おもしろい例を出すと;
「80点以上の人は手を挙げて」と先生が言った。
太郎君が手を挙げている。
ゆえに、太郎君は80点以上だった。
これは日常レベルではまったく問題のない推論ですが、形式論理に従えば、80点以下の人が手を挙げることを禁じられているわけではないので、太郎君は何点でもよいことになります。
その他、自分の信念や感情、期待、他者との関係によって推論は容易にねじ曲がったものになります。また、確率や統計分野では多くの誤解があり、ベイズの定理をめぐっては直感とは矛盾する数学的な解が得られることさえあります。本書の内容の大半はこうした人間の推論(の過ち)を心理学の立場から実験例を紹介していくものですが、総括としてのメッセージは明快で、「日常的な人間の推論はけっして合理的でないが、そうした自分の推論のしかたを知ることで、もっと洗練された思考のしかたを身につけられる」ということです。とりわけ統計やベイズの定理など高校で習わなかった新たな発見がありました。統計学や確率論はさらにほかの本で詳しく読みたいので、何かいい本を知っていたら教えてください。
■大井正・寺沢恒信『世界十五大哲学』PHP文庫(2014,1962の復刻)
哲学そのものについてはまたいつか「汗牛足」のテーマとして取り上げるつもりですが、ここではとくに思考力を鍛える訓練の場として哲学を取り上げることにします。
はじめに言っておきますがこの本のタイトルはいまいちです。このタイトルの意味するところは世界の十五人の大哲学者を取り上げてますよ、ということですが、それだけではこの本の魅力がまったく伝わりません。何が言いたいかというと、この本にはタイトル以上の中身が詰まっている、ということです。(ぼくは最初タイトルから中身の薄い本だと思っていたのですがそれは誤りでした。)よい点を3つ挙げると;
1.はじめに「哲学のすすめ」なるものが40ページほどありますが、これがまずすばらしい。なぜかというと、「哲学ってそもそも何」「哲学は何の役に立つの」といった素人の素朴な疑問に答えているからです。たまたまかもしれませんがぼくがこれまで手に取った哲学の本はそのあたりを軽く素通りしているか腑に落ちない説明だった一方で、この本はわりにやさしく書かれていて感激しました。
2.二つ目のよい点は哲学史としての内容構成です。この本の言うように、「従来の、哲学史と名のつく本は、無数の哲学者の列伝であるか、それとも、哲学史の時代ごとの特徴の解明であるか」というのが普通で、現在もある程度あてはまる指摘ではないかと思いますが、この本ではその両者の長所を併せ持つ試みがなされています。まず「哲学思想の歩み」を100ページほどでざっくりつかんだあとで、15人の哲学者を一人ずつ見ていきます。それも「たんに15人のべつべつな哲学者としてではなくて、2000年の哲学史を代表する15の偉大な哲学体系として理解」できるように配慮されています。
3.もう一つよい点をいうと、巻末に30ページほどですが用語解説がついていることです。それも初心者を意識して分かりやすいものになるよう苦心されています。哲学用語がやっかいなのはそれを調べてもその説明がいまひとつワカラナイことと、日常で使っている意味とちがう意味を持つ場合があることで、その意味で哲学の最大のつまづきの石は、哲学用語にあるといっても過言ではないとぼくは思います。とりあえずこの30ページを読むだけでかなり勉強になります。
さて、以下では、「哲学とは何か」、ということについて本書の内容を少し紹介します。まず断っておかなければならないことは、この問いかけに対する決まった一つの答えはないということです。というのも、「物事の根本へ、根本へとさかのぼって、一番深い根底に達し、そこから知識の体系をきずきあげようとするのが、哲学の基本的な傾向である」以上、「哲学とは何か」という問いに対しても、「前の時代の哲学者たちの与えた答えに満足しないで、新しくその問いを自らに課し、自らの探求によってその答えを求める、ということが、やはりくりかえしておこなわれてきた」からです。しかし、むしろそのために、「過去のいろいろな哲学者たちが、これこそが本当の哲学だ、と考えるものを自分で探求して」きました。つまり、そのために、哲学は「つぎつぎに自己の新しい局面を切り開き、より豊かに、かつより深く」、いくつもの側面を持った、多様性のあるものになります。「一口に哲学といっても、いろいろ傾向のちがった哲学」があって、それぞれが「哲学とは何か」という問いに対する各々の答えをもっているということ、これはまず頭に入れておくべきです。そのことを踏まえたうえで、著者の考える哲学とは、次のように要約できます:
「哲学とは、各人が自分自身の世界観を持ち、その世界観をより良いものにするために絶え間なく探求し、批判的に考えることである。」
そして、哲学の効用として第一に挙げられるのは、「はっきりした世界観をもっている場合にはじめて、うらふらしないで、あらゆる問題にたいして一貫した態度をとり、確信をもって生きる」ことです。もちろんこれらはあくまで著者の見かたであることを忘れてはいけませんが、とても説得力があるようにぼくは思います。
批判的に考えるというのは誤解してほしくないのですが、イチャモンをつけまくるというのではありません。この本では、「批判的であるということは、外から与えられた権威にたよってではなく、自分自身の内なる権威にもとづいて、良いものを良いと判断し、悪いものを悪いと判断すること」としています。先の『知的複眼思考法』を思い出してください、あれもまさに、社会全体の空気に流されるのではなく、自分自身の思考力や判断力で、その流れを吹っ切ることを志向していました。批判的精神を持つこと、これを言い換えれば、知的複眼思考法を身につけて実践すること、あるいは、哲学をすることだということができます。「現代のこの歴史的社会的条件のなかで、何を選び如何に生きるかを自ら哲学する能力を身につけてもらいたい」、これは著者の読者に対する期待です。「哲学する」ということは哲学者のような一部の人間だけがすることではなく、民主主義を支える全市民ができてしかるべきものかもしれません。
◆あとがき
今回紹介した『知的複眼思考法』は欠けている点が一つあると思っています。それは「いかにして問題を見過ごさずに、これは問題だ、と認識するか」ということです。つまりは、「問題発見能力」ですね。これは簡単なようで実は非常に奥の深い問題だと思っています。ぼくがこう考えるようになったのは以前に紹介した内田義彦『読書と社会科学』を読んだからでした。
――二つの面での信念に支えられて初めて、疑問が、ある事についてのハッキリした疑問として起り、それを解くための苦渋に満ちた探索が始まり、また持続するわけです
――日常語だけに頼っていては、学問的に解明することができないだけでなく、解決すべき問題そのものも明確には捉えられない
問題として取り上げられるべきものをこれは問題だ、として取り上げることは容易ではありません。そのために必要なこととして挙げられるものに、「クリティカル・シンキング」がありますが、それでは説明不足です。そのあたりを非常にうまく説明した本として、『読書と社会科学』を読むことができると思います。意欲のある人は、この2冊を合わせて読んでみてください、きっと有意義な読書になると思います。
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